AERODYNAMICS Exclusive !!
ロックスの「金ぴか帯」を作った男

エアロスミス初代担当ディレクター野中規雄さんインタビュー
〜7月6日単独インタビューバージョン〜
PART.4

自分の好きなアーティストを売った
“ディレクター野中”の10年

「エアロスミス初代ディレクター」という肩書で紹介してきた野中さんだが、現在はソニー・ミュージック ダイレクト(簡単に言えば紙ジャケを作った会社)の代表取締役。大変忙しい方である。その中、2時間もインタビューで時間を割いていただき、本当にありがとうございました。<(_ _)>

ディレクターとして突っ走った約10年とその後の仕事、1980年代中盤にマーケットを取り巻く状況が大きく変貌したことなど、洋楽最前線で戦った人の証言を。そして現在、洋楽邦楽問わず、ソニーの所有する旧譜カタログを「聴きたい人に届ける」ためにハッパをかける立場から見た音楽状況を語ってもらった。

野中さんの手を離れた後に
出た『ライヴ・ブートレッグ』



〜ラッシュ、ポイズン、G.Iオレンジまで〜

それみたことか!が快感だった

Akira:きょうはエアロスミスの話でしたけど、野中さんはその後にチープ・トリック、クラッシュを売り出され、また当時僕なんかいやだというほど聴かされたジャニス・イアンを仕掛けたとか・・・。ほかに何を担当されていたんですか?

売れなかったアーティストも含めると、100くらいはやっていたと思う。ソニーのロック系はほとんど俺だったんじゃないかな。先日のセーソクと話していたんだけど、カナダの3人組ラッシュと契約したり、あとポイズンって覚えているかな? インディーズで、マネージャーもいなくて、スタッフは弁護士だけというバンドと契約して日本に呼んだらヘタクソで、仕掛け大失敗でもう酷評されまくり。「あんなのはハードロックでも、ヘヴィ・メタルでもない」と。そのうちトントントンとアメリカでチャートを上がって、「それみてみろ。ざまぁみろ!」みたいな。やっぱりダメといわれたものを担当して「それ、みろ!」っていうのが好きだったのかもしれない。ちょっと毛色が違うけど、GIオレンジも発掘したしね。

もちろん、なにをやってもダメだったというのも、その影に累々といるわけで、それは忘れちゃってるかもしれない。ソニーは昔のものを結構いろいろ出してくれていて、再発シリーズでニナ・ハーゲンが出てきたり、あるいはサイケデリック・ファーズ、ジ・オンリー・ワンズが出て・・・。

先日もディレクターが
 「これも、野中さんの担当だったんですか?」
 「当たり前だ。俺だよ」
 「どこまでやってたんですか?」
 「だって他にいなかったんだもん」
っていうくらいレコードを出し続けたよね。

当時ディレクターって10人くらいはいた。でもトークショウでも言ったけど、ウエストコースト的なもの、ロギンズ&メッシーナが好きなディレクターはいたけど、ロックを扱う人は他にいなかったから、やらざるをえなかった。

ロック以外のジャンルで、野中が思い入れがあるのは、アル・スチュワートの「追憶の館(Modern Times)」。彼は次にRCAに移籍して「イヤー・オブ・ザ・キャット」で大ヒットするんだけど、その前に1枚担当したんだ。“ロックの野中”と一緒に、ジャニス・イアンの「愛の回想録(Between The Line)」と、アル・スチュワートの「追憶の館(Modern Times)」は、“アナザー・サイド・オブ・野中”の好きなアルバムかな?

ジ・アザー・サイド・オブ・野中の2枚
ジャニス・イアン『愛の回想録』
「ラブ・イズ・ブラインド」収録
爆発的に売れました!


アル・スチュワート『追憶の館』
この次のRCA第1作
「イヤー・オブ・ザ・キャット」が
皮肉にもアメリカで大ヒット


〜だんだん「日本支店」化が進んだ80年代〜

情報担当者経由しない時代に


Akira:1980年代中期になるとディレクターは卒業されていたんですか? 契約などをする、もっと上の立場に?

ロック・ディレクター・野中っていう存在は意外に短くて、1973年〜1982年ぐらいだったんじゃないかな。結局、クラッシュで打ち止めにしちゃったんだよね。

1982年、ミック・ジャガーにパリで会ったのね。それでミック・ジャガーと写真を撮って、「ああ、俺もこの業界に入ってよかったなぁ」っていう気持ちになったのが、ちょうどクラッシュの来日公演を終えた時期だった。同じころにミックと会えたことで、これでもう俺の現役はいいのかなぁ、後進に仕事を譲っていいんじゃないかなって思った。だからその間、熱い8年とか10年とか密度の濃かった時代があった。あのまんまはやれなかったと思う。後は「仕事はなんでもしますよ」っていう感じかな。

その後は、自分がディレクターから退いて、課長や次長の立場から「あ、それはやったらいいんじゃない」とか音楽にかかわっていった。だからGIオレンジ、さっき話に出たポイズンは、野中の作品であると同時に、「契約をしたのが野中」であって、担当したディレクターは他にいたのね。

そして、そのあたりから洋楽シーンが変わってきたの。1980年代に入ってから。よく言うんだけど、情報が担当者経由しないで入って来るようになったし、日本っていう国がアメリカにとって重要なマーケットに変貌してきた。だからアメリカ本社筋の指示、指令が強くなってきたので、日本独自の売り方っていうのが難しくなってきた。1980年代の中頃のことだね。

自分がディレクター時代、何が一番楽しかったのかっていうと、自分が考えて、自分で仕掛けて、自分で結果を見るっていう作業が楽しかった。それが「アメリカ本社の○○さんがこれをイチオシでやれと言ってます」とかに変わってきて、それが自分の中では面白くなかったっていうのはある。

Akira:そのころは、武道館のある東洋の神秘の国じゃなくて、日本が世界マーケティングの戦略拠点に入っちゃってますからね。

日本支店みたいな感じになっちゃった。もちろん仕事としてそれもちゃんとやったけれど、自分がディレクターとしてやりたい方向とは違ってきたんだろうな。昔がよかったという意味じゃなくて、「野中は10年間、やりたい放題やれた」という意味でラッキーだった。

そのうち本社も気づいたんだろうね。(日本では)こんなバンド、勝手に契約してきてって。エピックがノーランズとか持ってきて、大ブレイクさせちゃったりしてたし。それだったら、もっと(本社が力を入れてる)ブルース・スプリングスティーンを売れとか、指示が出るとか。




文中に出てきたアーティスト
野中さんが契約したGIオレンジ
「サイキック・マジック」がヒット
80'sブリティッシュ・インベイジョン
の愛すべき一発屋。名曲!


【参考】
ヒットを連発したノーランズ
80年代エピックのドル箱だった
イギリスのガールグループ
ディスコものコンピの常連
(野中さん担当作ではありません)


〜聴きたい人はいる。それを探し出せ〜

再びエアロスミスを売る立場に

Akira:その後、いろいろなお仕事をされて、現在は先日の紙ジャケを出したソニー・ミュージック ダイレクトのご担当になったわけですよね?

時計が12時から始まって、いま針が12時に戻ってきたって感じかな? その間には、国内レーベル、新人発掘(オーディション部門)の部長もやったし、それでアジアを回ったりとか、それなりに楽しんできた。

年代がひと回りして、今やりたいのは、エアロスミスに限らず、そのころのアーティストでいいもの、聴かせたいものはまだまだあるぞ!って。今、指示してるのは、ジャニス・ジョプリンのファンの人は、どうやったらもっとCDが手に入るかと思ってるだろうから、ジャニス・ジョプリンをやれとかね。

もう1つ「クラッシュをやれ!」と言ってたら、ちょうど『ロンドン・コーリング25周年』で発掘されたデモテープが見つかって、アルバムCD1枚にデモCD1枚、DVDがつくアイテムがイギリスで出るって。日本盤もその形で出すんだけど、なんかもう偶然の連続のような人生だな(笑)と、ある意味ラッキーが必ず付いて来る人生だな。

Akira:今回のエアロスミスの紙ジャケ19タイトル、よく許可しましたよね。

今はCDが売れないって言ってるけど、欲しいお客さんって絶対いるわけ。レコード会社だって、毎回毎回売れるものばかり出してるわけじゃないでしょ。ソニーには、ケミストリー、平井堅、中島美嘉って、看板アーティストがいるけど、日本中の人がその3組だけ買って満足してる人ばかりじゃない。

100万枚にいかなくても、1万枚でも5000枚でも、余分な返品がなければ商売としても成立できる。そう考えると、(売れない売れないと世間は言うけど)捨てたもんじゃないんです。だから、ネット受注販売も始めたし、紙ジャケっていうのも、買いたい人に訴える1つの手法だと思う。今回の紙ジャケが、ソニー・ミュージック ダイレクトっていう会社の最終形の商品とは思わないんだけど、1つの方法かなと思う。でもエアロスミスはこの形でいいけど、ノーランズだったら違うだろうし、クラッシュなら他の展開もあるだろうと。そこは探っていかないと。

紙ジャケって限定商品じゃないですか。何でだっていうと、あんなものをずっとお店においておいたら(何度も増産していたら)、利益率が下がっちゃう。だから売り切り御免。でもそのいっぽうで、お客さんも売り切れになるからって、期間集中して買ってくれる。だから利益率は低くても効率は悪くない。紙ジャケは、経費という意味では高いんだけど、でもお客さんのリピートが始まるわけ。リピーターになってくれるお客さんの「ゾーン」を探し出していきたいっていう気持ちはある。

何でも出せばいいってもんじゃない。紙ジャケ探検隊っていうサイトを拝見しても、あそこは同じ価値観を持った人が集まっていて、その評価に耐えうる紙ジャケを作らなきゃいけない。今回のエアロスミスは、(裏表紙の)バーコードの処理問題とか、文言のルールもあったんだけど・・・。ルールを守っていくというのも大切なことだけど、それを改良することによってお客さんの反応や評価が変われば、そっちのほうが会社としてもメリットあるじゃないかと。そう思ったらルールは変えられるんですよ。だって、ルールなんていつか誰かが作ったもんなんだから。

余談だけど、うちのセクションの人間がロンドンの会議に行って、各国の担当者の前でエアロスミスの紙ジャケのプレゼンをやったんです。そしたらみんな絶賛の嵐。つまり、あんなことを他の国は面倒くさくてやらない。「紙でLPみたいにミニチュアサイズになってるって、よくやるよね」っていうのが海外の反応。CDとして輸入する・輸出するじゃなくて、この紙ジャケットだけを入手する方法はないだろうかと相談されたりね。やはりアメリカより、ヨーロッパで反応がよかったんです。

去年、ソニーではYMOの、当時着ていたシャツのレプリカを付けたら、それを目当てにお客さんが来てくれた。グッズで釣ったといえば聞こえは悪いけど、YMOファンの人を心理をついた商品になったと思うんだ。欲しいと思ってくれるものが出せた。だけど、ああいうタイプの商品は限定にせざると得ない。何度も追加生産して、ずっと販売はできないからね。

いろんな方法があると思うんだけど、ファンの人が何を望んでいるのか、どういうものを喜ぶのかっていう情報があればね、商品企画ってまだまだ立てられると思うんだ。基本的には限定ですけど。

Akira:今回は、金帯を復活させて、ここまで凝って作りこんで…。ソニーって紙ジャケもやればここまで出来るじゃんみたいな姿をアピールしてますよね。

実はね、これは言ったんだよ(笑)。話を聞いた時に。

 「『ロックス』は金帯をやりますから」
 「ああ、そう・・・。で、エンボス、ロゴ型押しはどうするの?」
 「そこまで考えてないんですが・・・。どうしますか?」
 「お前、そこまでやんないと、お客さんが納得しないだろう!」って。

Akira:あはは! やっぱり言ったんだ!

言った!(笑)。金帯も大したもんだけど、この『ロックス』のエンボスもね…。これはね、(手間がかかりすぎて)今後あんまりできないと思う。手触りもこだわってるよね。金帯、金帯っていってるけど『ライヴ・ブートレッグ』の見開き再現にOKが出て、あれが出来たのが最高だよね。

もしもね、クラッシュの『ロンドン・コーリング』の紙ジャケを企画した時は、CD1枚じゃなくて、LP同様に(CDも当時の曲順で)2枚組にしろっていってるんだ(笑)。でもそんなことを言ってたら、25周年限定のスペシャルパッケージが出てきちゃったから、それを先に出さないとね。

(文中敬称略)

今後の紙ジャケ発売予定
8月+9月ボブ・ディラン
『ブロンド・オン・ブロンド』
ソニー初回帯を忠実再現


文中に出てきたYMO
1980年シャツ・バンダナ復刻
UC YMO Premium
↑Amazonに飛びます


ソニー紙ジャケ発売予定
10月06日/ソフト・マシーン
11月03日/ビリー・ジョエル
そして…
11月17日予定/クラッシュ
『動乱(獣を野に放て)』
インタビュー後に発売決定!
野中さんの気合い帯
完全再現熱望!!
[クラッシュ画像提供]
CAREER OPPORTUNITIES


文中にも出てきた『ロンドン・
コーリング』25周年記念盤
10/06発売予定

ご感想をお待ちしております。

パート4
特別付録(準備中)


野中さん1997年版インタビューはこちら

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