AERODYNAMICS 2周年記念特別企画 version 1.02 : 2001/08/16 〈ナイン・ライブス発売プロモパンフより完全再録〉 初代エアロ担当ディレクター 野中規雄氏直撃インタビュー!! |
1997年、アルバム「ナイン・ライブス」発売時に、ラジオ局などに配布された宣伝パンフ。 この中に、エアロを売り出した初代担当ディレクター・野中規雄氏のインタビューがある。 日本デビューから初来日までの秘話、「やりたい気持ち」等の邦題はなせ生まれたか? このインタビューを完全再録した。 聞き手はナイン・ライブス当時の担当D・高田直樹氏。 原文を尊重しているが、あきらかな誤植、意味不明な部分、重複部分は一部手を加えた。 また、必要と思われる箇所の編者の注釈は[○○○]のように、[カッコ]でくくって区別した。 |
Q | 初めてエアロの音に出会った時のインパクトを聞かせてください。どんな感じでエアロの音を発掘したんですか? |
野中 |
CBSソニーという当時の会社はアメリカのレコード会社の資本50%で、アメリカがベースだった。だから、アメリカの音が多く、当然その頃の中心になっていたのがBST[ブラッド・スウェット&ティアーズ]、シカゴ、サンタナなどのニュー・ロック中心のものだったんだ。 基本的、野中は個人的にロックに対する考え方として「イギリスはかっこよくてアメリカはかっこ悪い」っていう美学というか考え方があったものだから、正直言うと当時のCBSの音っていうのは個人的には好きな音ではなかったんだ。 当時の業界の流れでいったら、クイーン他どんどん他社からイギリスものが流れ込んでいた時に、CBSだけなかった。CBSはどちらかというとアメリカのヒッピーというか、ベトナム反戦のあたりからの音楽が多くて、ウエストコースト的な髭はやしたロックが多かった(とにかく髭はやしてる奴が大嫌いなんだけど)。 でも、アメリカのバンドで、もしかしたら落としてるものがあるかもしれないと思って、他のディレクターが捨てたNG輸入盤を全部聴かせてもらい、その中で探して偶然出会ったのがエアロスミスだった。イギリスのCBSにもあることはあったんだけど、弱かったんだよね。当時イギリスのCBSってかなり弱いレーベルで、特にポップものが多かったから、かっこいいロックはなかったんだよ。モット・ザ・フープルを初め担当したから、次にどうしてもイギリス傾向の音を求めるけど、CBSには無い状態だったんだよ。だから、偶然だね。エアロの最初のイニシャル[初回出荷枚数]は3000とか4000だったかな。 |
Q | 最初に出したのは2枚目の「GET YOUR WINGS(飛べ!エアロスミス)」ですよね? その時には1枚目は倉庫に入ってた状況ですか? |
野中 |
うん、倉庫に入ってた。最初に聴いたのが、一番最初の』エアロスミス(野獣生誕)』。そして、ドリーム・オンを聴いた時に俺は「担当しよう!」と決意したんだ。ドリーム・オンは名曲だと思ってたから、シングルでヒットしたときには「ほらみろ!」と思ったよ。 それで「野中が担当していいですか?」と上司に聞いて、OKになった直後に二枚目がアメリカで出たんだ。エアロスミスを日本で紹介しようよ思った瞬間にもうすぐに二枚あったから、新しいアルバムから出していこうと思って。 まったくプレッシャーなんてないアーティストだった。当時アメリカでは一枚出してだめだとすぐ契約が終わるアーチストがたくさんいて、もしかしたらエアロスミスもそのくらいの程度の期待しかなかったと思う。だから"エアロスミスを出せ"と全く言われないし、アメリカでも売れていないし(ただビルボードで170位とか160位か、そのへんにうろうろしていたことは確か)。 その後、3枚目の『TOYS IN THE ATTIC』が割とすぐリリースされたんだ。それがアメリカで当たったんだよ。それも、日本じゃ売れなかったんだけどね。一生懸命やったけど、ほんのちょっと評判になったくらいじゃないかな。今から考えてもメイン[の媒体]はミュージック・ライフと音楽専科しかなかったし、そのほかの雑誌もいろいろこつこつやったけど結局当時はプライオリティー・アーチストじゃなかったから、自分でやるしかなくて、あとは評論家の方とか音楽専門誌と他社のロック・ディレクターに配るという程度だった。でも、確か、1年経った時「ワーナーのクイーン、ビクターのキッス、CBSのエアロスミス」という風にはなってたね。そして、やっぱり仕上げは『ロックス』だったよ。 |
Q | 「TOYS〜」がアメリカで当たったときの余波っていうのはあったんですか? |
野中 | トップ40型のものとかアメリカを見てる人は『TOYS〜』からだったと思う。それまで、なんだか知らないけどただ単に騒いでるってだけで、「アメリカであがってきたので、あれはいいバンドだな」というだけだった。まだエアロスミスじゃなくて、アエロスミスだとかいわれもしたけれど、初めてアメリカン・ヒット・チャート系番組とか雑誌とかでも一応紹介はされた。でも爆発はしなかったな。 |
Q | 当時の「クイーン、キッス、エアロスミス」という3大バンドの時代について教えて下さい。 |
野中 |
今の洋楽[市場]のスケールからすると、ドテカンだけど、今の売上の5分の1位が当時のサイズかな? その頃エアロスミスで一番売れたのは10万ちょっとだったと思う。クイーンが当時60万枚くらいでピークだったから60万っていうのは想像を絶する数字だったよ。多分今の300万枚に匹敵するんじゃないかと思う。ロックが今300万枚売れるって凄いことだよね。エアロはその6分の1だったから今の感覚で50万かな。 今の時代で50万だと結構いいけど、もっと凄いライバルが売れてる時に「やっぱり負けてるなぁ」という印象は強かったよね。あとCBSソニーにはS&G[サイモン&ガーファンクル]とかアンディー・ウイリアムスというイメージがついてるから、なかなかロック物に関してはプロモーションも営業も売れるという自信を持ってくれなかった。野球のドラフト1位で入ったスーパースター:クイーンと、テスト入団のエアロスミスというくらいの差があったけれど、一応うちの会社の中では他にいないから(アメリカではブルー・オイスター・カルトっていたけれどもタイプが違うので)、うちの会社の代表として、弱いけれど一応顔にしなければということで、当時全盛のクイーンに敢えてぶつけてた。美しいクイーンとロックンロール系ヘヴィーなエアロスミスっていう風に、わざとクイーン・キッス・エアロスミスという3大バンドってくくりに。 全くスケールは違っていたけどね。日本の歌謡曲とかアイドルとかっていうのも、よく「三羽がらす」とか「3」でくくるよね。マスコミ的にいうとクイーン・キッス・エアロスミスという三大ロックバンドでくくると、ラジオでもかけてもらえる。クイーンの人気にあやかってというやり方としたのかもしれない。だからどこまでいっても人気投票では[御三家の]絶対一番下なわけだよ。それは女の子のファンのつき方とか音楽の内容が違ったのもあると思うけど。でも、ソニーの当時のアーティストの中では一番かっこよかったよね。 ロックが「がー!」ときた時代だったから、皆3つとも押し上げられてたという感じはあるけど、クイーンはアイドル人気だよね。イギリスのものを全部持ってるじゃない。"ハード的な美しさと様式、劇的な大げさな構成力と、プログレでもありハードロックでもありという部分をみんな持ってて、しかも美しい"、これにはかなわなかったよ。キッスの場合はエンタテインメント・バンドで、火を吹いたり、血出したりコスチュームというビジュアルバンドだった。だから、[音楽雑誌の]表紙とかはクイーンとキッスが1カ月ごとに表紙をとっていくような状態で、エアロスミスなんて、今でこそ皆かっこいいというけど、当時"なんだ、この猿みたいな顔は?"って言われたわけよ。表紙をとるなんて、とんでもない話だったね。 ただ、エアロスミスとの場合は、基本的にロックンロールのライブバンドで、写真1枚で決まるのではなく、本当にロックの演奏と中身、空気で勝負するバンドだった。だから、ずーっと、このバンドは伸びるだろうなと思っていたね。クイーンが例えば将来人気が無くなっちゃっても、エアロスミスは絶対生き残ってるだろうなとか、キッスの派手な演出に飽きちゃっても、エアロスミスは残るぞと思ってたよ。 |
Q | 初来日前に海外でのエアロのライブをご覧になってたのですか? |
野中 |
来日前か後かは覚えてないけど随分見に行ってるよ。でも今まで見た中で一番印象に残るのは(個人的思い入れもあるけど)初来日武道館かな。 お客さんも初めて見るわけだし、エアロスミスも日本人のノリがわからないまま、その緊張感で相当テンションを高めてやったから、あれは結構伝説的なライブだと思う。 |
Q | その頃にはエアロはコアを越えて、一般的になってたんですか? |
野中 |
『TOYS〜』もセールス的にはコアだけど『ROCKS』の時は、宣伝マンもセールスも「エアロやるべきだ!」になってたから、当時の言葉でいえばイチオシになってたね。宣伝も広告もサンプルの量も一番上だったから、宣伝費も使ったよな。 武道館の時はエアロの時代の第一期のピークだったかもしれない。当時の初来日武道館っていうのは、今に当てはめると初来日ドームみたいなもので、「大丈夫かなぁ、そんなに入るかな」という不安があった状態だった。それでも、満杯になってた。一般社会ではまだまだだったけど、音楽シーンでは大騒ぎだった。ただ、その頃を考えると社会現象にっていうのは、ベイ・シティ・ローラーズぐらいかな? |
Q | 初めて会ったときの印象はいかがでした? |
野中 |
当時BAD BOYSというか、悪い奴等というイメージをロックバンドに対して皆持ってたわけよ。或る意味でロックバンドは―――悪ガキを演じていたと思う。特にスティーヴンは相当"ロックの悪さ"を演じていたね。 でも、悪い奴等じゃなかったけどね。ジョー・ペリーは結婚してカミさんも一緒に来てたけど、多分子供のころから鏡見てギター持って、ポーズを決めるタイプだったな。結婚してたけど、かっこつけガキだった。 俺、当時ロックやろうという人間が美しくないっていうのは、許せなかったんだ。それにイギリスのバンドは、普段静かなんだけど、アメリカのバンドはギャーギャーうるさいんだよ。ところが、エアロスミスは、意外と静かで、割と小柄、細めだった。そういうところがアメリカのバンドだけど好きだったりゆううかもしれない。あとは音だよね。アメリカらしからぬ音。 |
Q | 当時、野中さんが"沖田豪"というペンネームで雑誌にやたら書いてましたけど、ライターやメディアの数の少なさから来た当時の宣伝のやり方だったんですか? |
野中 | 書いてもらう良き理解者が未だに少ない時で、"じゃ自分でやっちまえ"と思って。音楽専科の時は、ライターの人がいたんだけど編集長が「野中ってのが面白い」と言われて、書いたんだ。 |
Q | 当時はファンへの対応もすごくまめにやってたという話も聞いたんですが。 |
野中 | アーティストのことを知りたい時は、一番情報が集まってる担当ディレクターに聴くのが一番いいという時代だったんだよね。今はもう、ダイレクトに衛星とかで情報が入ってくるわけだけど、当時は入って来ないわけだから、「雑誌のニュースを見て本当ですか?」「スティーヴンが誰がとつきあってるって本当ですか?」みたいなことが(レコードの帯に名前や電話番号を入れてたから)ばかばか電話でかかってきちゃって大変だった。私設ファンクラブみたいのが沢山できると、また電話がかかる。そういう意味ではファンクラブの元締めみたいな役目もやってたな。 |
Q | 最後に担当されたのは「DRAW THE LINE」ですか? |
野中 | そう。結局4枚しかやってないんだよね。エアロスミスって基本的にうねり型のロックンロール・バンドだと思ってたんだけど、音志向のほうに行って、"危険だなー"と思ったし、ライブのクオリティーがその頃落ちてきてたんだよね。(後になって考えれば)それは内紛の始まりだったって思えるんだけど、当時はわからないじゃない。ただ、悪い予感はあったよね。的中しちゃった。 |
Q | 初来日の頃にはドラッグやアルコール問題が出ていたのですか? |
野中 |
『ROCKS』のころは、アルコールは浴びるほど飲んでたけどドラッグはなかったと思う。少なくとも日本の中ではなかった。そういう問題はもっと後じゃないかな。スティーヴンとジョーと俺と3人だけで食事行ったりしたし、楽屋で普通に話とかしてたけどそれほどヤバイ状況だったとは、あの時は思えないね。その時点で芽はあったかもしれないけど、まだ具体的にはやってはいないと思う。『DRAW〜』の当たりからじゃないかな。『美獣乱舞』の辺は前担当者として聞いて「あぁ〜ぁ」という感じだったね。 [注=この記事が作られたのは、エアロスミス自伝発売前の1997年。自伝中では、日本にもドラッグを持ち込んだことになっている] |
Q | 一度落ちたエアロが'80年代に再び復活すると思いました? |
野中 |
思わなかったね。『WALK THIS WAY』のヒット[RUN DMC版]で久しぶりにMTVかなんかで見て、「変わってないねー」と思って、『PERMANENT VACATION』を聞いて「おおぉ〜さすが」って思ってたら、『GET A GRIP』でひっくり返った! 昔を懐かしんで、『ROCKS』は良かったとかよく言うけど今のほうが凄いよ! 一度登りつめてから落ちて、復活した時には前よりもすごくなってるバンドなんて、過去にないと思うよ。 最近、復活して"昔の名前で出てる"バンドがいっぱい来日するけど、10個みたら多分10個がっかりするよね。思い出を汚されてるみたいで、最近は絶対見に行かない。セックス・ピストルズだって絶対見に行かないと決めて行かなかった。ところがエアロスミスだけは昔より凄いんだ。今でも見たいよ。確かにこの影響を受けたガンズもいいと思うけど、本家はもっと凄いよね。そんな流れを作ったバンドは他にはいないよね。 |
Q | 新作「ナイン・ライブス」は聴きました? |
野中 | うん、安心感というべきかな。前も思ったんだけどエアロスミスは、ロックスの後にこのクオリティーでこのノリでやっておいてくれれば良かったね。でも、どんどん変わったんだよ。だから今度のアルバムも或る意味においては復活後のクオリティーをずっとやってて安心だし、このままでいいんじゃないかと思うね。絶対にトシをとらないバンドなのが不思議です。 |
Q | 今のエアロのメンバーに会った時に野中さんが贈るとしたら、そんな言葉を贈りますか? |
野中 | ないね(笑)。でも、エアロスミスがいたから"ロック・ディレクター"というイメージを押し出せたんだ。洋楽時代に何十ものアーティストのアルバムを担当したけどエアロスミス、チープ・トリック、クラッシュの3つのロック・バンドのイメージが、業界の中において結構得したね。野中にとっては、ありがたいです。ありがとうございます。でも、やっぱり今思えば、エアロスミスをやるきっかけになったのが『ドリーム・オン』だったというのもなかなか劇的だなー。俺48才だけど、この人たちの姿を見てると、つられて、まだ自分も「夢見て」いいんじゃないかと思っちゃうよね。気持ち悪い?(笑) |
野中氏インタビュー長編版や、初来日時の野中メモが読める本
「3大バンドの時代」と、当時のマスコミの反応など、記事をまとめた本
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Back to 1977 the 1st JAPAN tour edition |
特別付録:1977年当時担当ディレクター・野中規雄インタビュー完全再録 |
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